三蔵法師・玄奘の旅路:あの時代に、インドまで徒歩で行こうとすることは、言葉では表せない出来事だった。
中国映画のDVD「三蔵法師・玄奘の旅路」を観ました。すばらしい映画です。感動しました。これはいいという歴史映画を探しておすすめするサイトです。
ロシアによるウクライナの進行が止まらないこの背景には民族的な意識、歴史的な背景などが存在すると言われている。 そしてもう一つ大きな要因として宗教的な背景が存在している
先日もロシア正教会のキリル宗教画ロシアのウクライナの侵攻を支持するとのべ、ロシアのプーチン大統領との親密な関係を演出している。 一方ではカトリックのフランシスコ教皇はキリル主教と予定していた会談を延期すると発表した。
ローマ教皇がロシア正教会と何らかの話を持ち一刻も早く戦争を中止または停戦に持ち込むことが期待されていたにもかかわらず、結局のところローマ法王は何もアクションを起こすことなく静観を構えたものと考える。
現在の抱える宗教問題は歴史始まって以来ずっと続いてきたもので、ユダヤ教徒Xキリスト教、キリスト教Xイスラム教徒の戦い等、宗教間では本来あるべからざる大量の殺人行為は神の名のもとに断行され現在も続いている。 この問題については、仏教も例外ではなく宗教間の争いは何の宗派とも有史以来続いてきた。
ここで紹介する「三蔵法師玄奘の旅路」は 唐の時代に玄奘法師が天竺へ経典を得るための艱難辛苦の旅の物語あり、その結果だけで世界は変わるものではなかった。
しかしながら彼の艱難辛苦の旅路で彼が持ち帰った法典は単なる法典だけではなく 仏教という教えが特にアジアの人々の心の中に浸透し、後々の時代になっても人々の世界観を変える要因の一つとなっているというその意味でこの出来事は非常に重要な歴史的なものだったと考えている。先人たちは偉かった。それに引き換え、今の人間がやっていることはなんだ。人間の『堕落』以外何物でもない。 人類はここで、キリスト教・ユダヤ教・イスラム教など権力と結びつく前の、宗教の原点に戻って、世界を見つめ直す時ではないだろうか。
映画の紹介
これは玄奘が唐の都の長安を出発してから、長安に帰着するまでの玄奘の足跡を記録したものである。完全な記録映画ではないため、どの程度史実に忠実出るかはわからぬが、細かい点が別として概ね、忠実に描写されたものと考える。
映画データ
アマゾンのサイトに移動します
【三蔵法師・玄奘の旅路】 ☜ こちらをクリックしてください
ストーリー
玄奘―三蔵法師は長安からブッダの国、インドへと仏典を求め旅立つ。多くの出逢いと別れを経て、灼熱のタクラマカン砂漠を越え、ついにインドのナーランダー僧院へ辿り着き仏教の研究に勤しむ。多くの仏典を中国に持ち帰った時、彼は齢50歳を過ぎていた。
これは玄奘が唐の都の長安を出発してから、長安に帰着するまでの玄奘の足跡を記録したものである。完全な記録映画ではないため、どの程度史実に忠実出るかはわからぬが、細かい点が別として概ね、忠実に描写されたものと考える。
映画データ
アマゾンのサイトに移動します
【三蔵法師・玄奘の旅路】 ☜ こちらをクリックしてください
ストーリー
玄奘―三蔵法師は長安からブッダの国、インドへと仏典を求め旅立つ。多くの出逢いと別れを経て、灼熱のタクラマカン砂漠を越え、ついにインドのナーランダー僧院へ辿り着き仏教の研究に勤しむ。多くの仏典を中国に持ち帰った時、彼は齢50歳を過ぎていた。
627年8月 玄奘は天竺へ 今日点を取りに行くため東の都今日はもう出発した
629年 彼は当時の西行きの高昌に到達し、高昌王の歓待を受け数ヶ月間滞在する。
彼はその時に高昌王に留まるように説得されたが、王の誘いを断り旅を続ける。
高昌:中国の南北朝時代から唐代にかけて現在の新疆ウイグル自治区トルファン市に存在したオアシス .
631年 ナーランダ僧院に到着した。 そこで5年ほど修行を行い、
『般若心経』を会得する
641年 天竺における仏法大会 仏の教えの伝道者としての地位を認められる
642年6月 唐への帰途につく
645年 長安に帰着
法典の整備と翻訳2従事する
664年 62歳で逝去する
背景と見どころ
この映画は現場が艱難辛苦の末天竺から頭に交点を持ち帰ったことの異議を余すところなく表現していることである
冒頭にも述べたように現代において宗教的な混乱、行き詰まり等が議論されている中で、仏教が諸々の宗教の中で、ある種の際立った存在意義を示している。
この映画は娯楽映画ではあるが、比較的仏教の教義にも触れ、人々に仏教とはなんぞやということを理解する助けにもなると思う。
映像に見る歴史 おすすめ映画50選のホームページに戻ります。
|

0 件のコメント:
コメントを投稿