2022年5月10日火曜日

「ドニエプル攻防決戦1941」:ウクライナとロシアの確執・・ロシアはナチの歴史をウクライナで繰り返した!

ドニエプル攻防決戦1941(字幕版)

歴史は繰り返された!衝撃!今、ウクライナで起こっている悲劇が、今からちょうど80年前同じ場所で起こっていた。
アマゾン・プライム劇場「ドニエプル攻防決戦1941」をお贈りします。

東北部ウクライナ・ロシア南部国境付近:「ドニエプル決戦」が行われた付近


映画の紹介
 クルスクの戦いの後、ドイツ国防軍最高司令部は東部戦線において赤軍に対してすでに大規模な攻撃を行うことはもはやできなかった。クルスク後の長い退却の間、ドイツ軍とそれを支援するドイツ空軍はドニエプル川を渡り西へ移動、ボータン線に沿って防衛を固めた。

 一方南下してきたドイツ軍に全面的に包囲されたソビエト軍は、市民数千人と共に全滅の危機に遭遇するが、ソビエト軍の指揮を執る連隊長は、徹底抗戦をとりつつ、ドイツ軍の囲みを打ち破り脱出を試みる!!


今現在のウクライナの戦況をそのまま見ているかのような錯覚を覚える


映画データ
 
(C)Department on cinematography of the Ministry of Culture of Republic of Belarus RUP "National film studio "Belarusfilm" 2009
2時間11分

2013
監督 デニス・スコヴォゾウ
出演 イゴール・シコヴ, セニア・キャセヴ, アナトリー・コット
ジャンル 外国映画, 歴史, 軍隊・戦争
オーディオ言語 Русский


ストーリー
南方軍集団北翼を突破したソ連赤軍はドニエプル方面へ侵攻を開始し、《中央戦線》軍はウクライナの中心都市キエフを目指して猛進撃。ソ連赤軍はドニエプル川、プリピャチ川合流地点でドニエプル川渡河の最初の橋頭堡を確保。ドイツ国防軍とソ連赤軍は死闘を繰り広げていくのだった。(C)Department on cinematography of the Ministry of Culture of Republic of Belarus RUP "National film studio


背景と見どころ
「ドニエプル攻防決戦」が行われた同じころ、ドイツ軍は、レニングラードに迫り、1941年9月8日 - 1944年1月27日)の間3年間にわたりレーニングラードを死守するロシアとの間に文字通り死闘を繰り広げていた。
ここにWikipediaからの引用を掲げる
1941年6月22日3時15分、ドイツ軍は作戦名「バルバロッサ」の下にソ連を奇襲攻撃した。ヨーロッパにおけるドイツ占領地からは反共主義者の志願者や、武装親衛隊によって徴発された人々がドイツ軍に加わった。
 開戦当初、ソ連軍が大敗を喫したこともあり歴史的に反ソ感情が強かったバルト地方や、共産党の過酷な政策からウクライナの住民は、ドイツ軍を当初「共産主義ロシアの圧制からの解放軍」と歓迎し、ドイツ軍に志願したり共産主義者を引き渡すなど自ら進んでドイツ軍の支配に協力する住民も現れた。また反共産主義者はロシア国民解放軍やロシア解放軍として共産主義者と戦った。

 しかし、スラヴ人を劣等民族と認識していたヒトラーは、彼らの独立を認める考えはなく、こうした動きをほとんど利用しようとしなかった。親衛隊や東部占領地域省はドイツ系民族を占領地に移住させて植民地にしようと計画し、一部実行された。

ドイツ軍はソビエト連邦第2の大都市レニングラード(現・サンクトペテルブルク)を900日近くにわたって包囲したが、レニングラードは包囲に耐え抜き、後にスターリンによって英雄都市の称号が与えられた。ソ連政府の発表では市民の死者は約63万人だが実数は100万人を超えるとも言われる。また死因の97%は餓死と言われている。またこの独ソ戦で、ソ連側の死者は、数千万人に上った。

 ここにあげるような歴史があったからこそ、いまだにロシア国民の中に西側に対する根強い不信感が定着したといわれている。今日のロシアのウクライナへの侵攻は決して許されない。しかし同時に過去の歴史の中で先進国が犯した数々の誤りも忘れることは許されない!

憎悪が憎悪を呼び、かくして歴史は繰り返される。

詳しい説明は 【ドニエプル攻防戦1941】 ☜ こちらをクリックしてください
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